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スペインのおばちゃん(チナツ)の子ども時代

1986年8月 小学4年生 夏休み

野外教育センター(当時)主催の28泊29日の長期キャンプ(信州下伊那の泰阜村)に、2年生の妹サクラと共に参加。

一度だけ届いた汚れたハガキに「すごく楽しい。お風呂に3回入りました」とあった。1ヶ月後、ゲソっとやせて帰宅。キャンプではどんぶり飯を食べていたらしいが、運動量 がそれを上回わり、脂肪をゴッソリ落としたらしい(残念ながら、食欲は10日ほどで元に戻ってしまった)。

サクラへの気遣いで少し疲れ、その時からサクラが嫌いになったのだと、高校生の頃までグチっていた。

1987年4月~1989年3月 小学5・6年生

前年夏の1ヶ月キャンプから、泰阜村で暮らそうと気持ちを固めて帰って来たチナツは、翌春から山村留学に参加するための準備を始めた。4月、山村留学生活スタート。

その村での山村留学が開始された直後であったため、すべてが手探りという幸運に恵まれる。 最大のオマケが、10数年宿舎として使われた通称ダイダラボッチを建てたこと。 隙間だらけで、天井もない見事な家?を一軒建ててしまった。

翌年、もう1年いたいと居残りを決める。余裕の2年目。が妹との同時参加でそれなりの苦労があったらしい。村の小学校を卒業、泰阜村を離れる。「もう1年」と強く望んだけれど、親の許可が下りず、無念の帰宅。

1989年8月 中学1年生

山村留学の仲間と北海道10日間野宿の旅を計画。青年1人、少年5人と少女チナツの7人のメンバー。「札幌駅北口、午後3時集合」というアバウトな旅のスタート地点に向かうため、一人上野駅を出発。大きなリュックのほか、親の「旅行許可書」を持参。オットが書いた「この子は親の許可の元、旅行をしている」旨と連絡先、親切にしてくださった方宛に「旅行の報告をさせるので、ご住所を……」の文章。家出と間違えられて送り返されたら、チナツの旅が台無しになるので慎重に言葉を選んで書いた記憶がある。以降、チナツとサクラの一般的でない「お出かけ」の際は内容流用で活躍した。

他のメンバーもそれぞれの地元から発つ。信州から知人の家々を泊まりながら北上した者、名古屋から船で北海道入りしたものの、1日早く着いてしまって、函館の公園のベンチで一夜を明かした者、部活の合宿から帰ったその足で飛行機に飛び乗った者など。

当日無事全員集合。毎晩寝る前には熊の襲撃に備え(怯え)、内側の場所を取るためのジャンケンをしたとか。少女だからという優遇措置は皆無だったらしい、当然だけど。途中、休養と洗濯のため、ユースホステルに2泊したらしいが、概ね野宿の旅。

余談になるが、学割をもらうために、家族以外との旅行を認めていない(だれが決めたんだ!)学校と揉めるのではないかと思っていたが、結構あっさりカタがついた。親がキッパリ旅行の宣言をしてしまうと、この親には話が通じないということになってしまうらしい、幸いなことに。で、それ以後学校を休んでの旅行や、高校受験の志望校など、トラブルもなく結構思い通りに事が運んだ。

1991年8月 高校1年生

ユースホステルの新聞に載っていたアルバイト募集の記事を見て、夏休みを信州・戸隠ユースホステルでアルバイトしながら、戸隠高原で過ごすコトに決める。 約1ヶ月、ユースの雑用をしながら、余暇に散策やテニスを楽しむといったなかなかステキな夏であったような。

電話でアルバイト希望を伝えたものの、ピアレントの方は幼い声に半信半疑ではなかったかと思うが、後で聞くところによると、声で本当に来るかどうかは解るそうな。人相手の仕事をしているプロはやはり凄い。

1992年8月 高校2年生

前年に続き戸隠ユースホステルで3週間のアルバイトの後、その足で四国に向かう。 山村留学の仲間と四万十川をタイヤ筏で下る計画に参加。実に愉快で危険な川下りだったとは、あとから聞いた話。男の子以上に荷物を背負えるのだとは、彼女の最大の自慢。

1995年10月~1996年9月 

アイルランド語学留学。親は学費とホームステイ代しか出さないこと、留学の準備は業者を頼まず、学校の選択・入学手続き、飛行機の手配全て自力でやること。その条件をクリアすべく、アルバイトと勉強に励む。

「どうしてアイルランド?」と聞かれると、「だからアイルランドなんだよ」と答えるチナツ。日本人がなるべくいないところを探した結果がアイルランドなのだった。

オドノバン家の温かさに包まれて、今までの人生で最高に楽しい時を過ごしたそうな。週一回の手紙には、早くからアイルランドを去りがたいと綴ってきた。週日は勉強、週末は夜中まで遊ぶというメリハリのある生活。友達は圧倒的にヨーロッパ人で、スペイン人、イタリア人とは、彼女自身が持つラテンっぽい熱い性格が合うようで、特に深い友情を感じあっていた様子。

9ヶ月でアドバンスクラスをクリアしてしまったので、残り3ヶ月間を旅行に当てる。 まずはイギリスでウインブルドンのテニスを楽しみ、フランス、スペイン、イタリア、ギリシャを回る。ほとんど1人旅で、ユースホステルと粗食で見事なケチケチ旅行。 ウインブルドンの立ち見のチケットでさえ、彼女には高価。テニスの試合を見るため、食事に食パンをかじることで相殺した、とか。

スペインでは、朝食にファンタを飲んでいたらしい。暑くて食欲がない上、ファンタなら喉ごしもいいし、炭酸でお腹がふくれ、昼まで空腹を感じないですむ、とか。

美術館をよく歩いたらしい。が、レストランでお金を使いたくないのに、持ち込みの物をたべるスペースが用意されていない美術館がほとんど。仕方なく、朝、ユースで目一杯の食事をして美術館に出掛け、空腹が我慢できなくなった時点で美術館を出て、手作りのハムとパンだけのサンドイッチを食べた、とか。

真夏のスペインでは安く、自室にシャワーのない部屋を頼んだが、5日間滞在だと言うと、フロントの好意でシャワー付きの部屋を提供されたらしい。

ケチケチ精神のお陰で(彼女は普段、割と豪快にお金を使う、念のため)、3ヶ月近くも旅を楽しみ、再びアイルランドに戻り、のんびり遊んで、丁度1年の留学を終えた。

アイルランドに再び行くぞと心に誓って帰国。以後アイルランド関係の本、映画、新聞の記事等々常にアンテナを張り巡らしている。

1996年10月

アイルランドから帰国。

留学最後の3ヶ月間、ヨーロッパ各地を一人旅したチナツは、スペインに長く留まった。

「今までに見たものの中で一番美しい物は、アルハンブラ宮殿です。」「スペインでは、英語は通じないけれど、幾つかのスペイン語と5までの数字を言えたら、大丈夫。一人旅だから5コ以上物を買う事はないもの」「こちらは只今、40度。誰も通りにいないので、私も公園のペンチでシエスタです」と、旅の様子を知らせるハガキを寄越しながら、チナツは、「次はスペインだな」という思いを膨らませていたらしい。

1998年8月

信州下伊那の万古渓谷でキャンプ。またも山村留学の仲間(男の子2人と)とキャンプに出掛ける。女の子一人の参加でも、全然心配のいらない関係を彼らは作り上げているように感じるのは母親のひいき目で、どうも男3人という認識に近いらしい。

朝、爆睡しているチナツにご飯が出来たから起きないかと声をかける優しい男の子達、荷物の重さも夜中の長時間の移動も苦にしないチナツの強さ、全くいいバランスだ。 体力のある仲間でやる遊びは格別の面白さがあるのだと、大満足。

1999年11月

アイルランドから帰国して落ち着くと、スペイン語の学校に通い始めた。英語が出来ると、次のヨーロッパ言語は、単語の意味が類推できるので有利だそうで、週1~2回の授業でも、少しずつ進歩している様子が伺えた。

最初の2年間は親の仕事を手伝い、次の1年はコーヒーショップでアルバイト。と都合3年間で、親へ渡す生活費とスペイン語の授業料を払いながら、留学資金を貯め、1999秋、スペイン・バレンシアに旅立つ。

チケットが安くなる11月の、そのまた安い(短期 FIX の往復チケット。帰りのチケットは初めから使わない予定)チケットをHISで購入。アイルランドの時の、親がかりと違い、すべて自力の今回はお金が続く限り帰国しない予定。

本人の計算によると、地道に暮らせば1年は滞在でき、上手くいけば、留学中に再びアイルランドに渡ったり、前回の留学で親しくなった友人をその国に訪ねることもできるかもしれないとか。言葉が出来ると、バス・フェリー・列車など、安い交通手段がいくらでも考えられる。言葉は行動を広げでくれるなーと、日本語しか分からない母は思うのだった。

バレンシアでは、アイルランド留学中の友人・スペイン人のラファ君のアパートに家賃約1万5千円で同居させてもらう事が決まっていた。もう1人の同居人・アルバロ君と3人で和気藹々の生活ぶりがチナツからの手紙から伺える。

3年間アルバイトに明け暮れ、遊ぶ機会が多くなかったチナツも、今はテニスやローラーブレードに興じたり、唐揚げや五目ずしをフランス人に食べさせたり、間違って買ってしまったサッカーのチケットを、ダフ屋よろしくサッカー場の前でスペイン人に売ろうとして、本職のダフ屋のおじさんの笑いを集めたり、と日々バレンシアの生活を楽しんでいる様子。

2000年1月

チナツの誕生日でもあるので、記念すべきこの日に、嘗て一度もしたことがない電話をかけてみた。

時差は9時間。あちらの時間で午後2時頃かけると、チナツの寝ぼけ声。前日からラファ君、アルバロ君とその仲間10人で町に繰り出し、朝帰りしたそうで、まだリビングルームのソファーにはスペイン人がゴロゴロ寝ているよ、という状況なのだそうだ。

後日送られて来た当日の写真には、9人のスペイン人の青年の中に、東洋の女の子が1人写っていた。

2000年6月

ビジネススペイン語の検定試験を受けるそうで、勉強に時間を取られるのか、週に1回届いていた手紙が届かなくなる。「生きてますか?」という私の手紙を読んで、初めて電話をしてきた。

電話嫌いで、娘達が海外の何処に行こうと、ほとんど電話をしたこともないし、かかってくるのも望んでいない私だが、さすがに安心をもたらしてくれた。

「今日は、テストの勉強を1日だけ休んで、ビーチに行くんだ。レストランで食事もするの。まだ、スペインに来てレストランに数回しか行ったことないんだよ。」と娘。

そうそう、若者は貧乏でなくちゃいけない。貧乏し続けて、1日でも長くスペインにいるか、貧乏の結果少しでもお金が残ったら、ビンボー旅行にでるか、やりたい事もやれる事も沢山あるんだから……。

2001年3月

1年半の留学期間を終え、泣く泣く帰国。といっても、すでに再度スペインに渡る計画は練り上げてあった。スペインでずっと暮らしていくために、スペインの大学を目指すという。つまり、スペイン社会で仕事をするには、もう少し語学が必要だし、さらに失業率の高い国で仕事に就くには、それなりの能力が必要と判断したらしい。日本で資金稼ぎをして、秋には渡西。お金が無くなったら、帰国して資金稼ぎ……と、何度か繰り返し学校に通う予定とか。とは言っても、あくまでも仕事を得るための勉強だから、途中、仕事が見つかれば即、学校を止めて就職、という心づもりなのだった。

2001年4月

派遣社員として、日立製作所で働き始める。2ヶ月の派遣期間が終わった後、日立から「1年間の契約社員」の話が持ち上がる。予想以上のお給料にスペイン行きを来夏まで延期する。この1年を頑張れば、スペインで大学生活を何とかやりくりしていけるかもしれない。

我が家で一番パソコンが苦手なチナツが仕事のお陰で、この頃何やらイッチョマエの発言をし始めた。サクラもそうだったが、Macユーザーの我が家族は、仕事やアルバイトでWindowsに触れ、世間並みに解る人、となる。ヨーロッパ関連の仕事なので、英語をよく使うのも、彼女にとってはラッキーなことで、 TOIECなども受けて充実の生活。

2002年 秋

スペインに再上陸。バレンシアで学生時代を経て、就職。未だスペインの人。

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