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ママ(サクラ)の子ども時代

1986年8月 小学2年生 夏休み

野外教育センター(当時)主催の28泊29日の長期キャンプ(信州下伊那の泰阜村)に4年生の姉チナツと共に参加。出発の時は、自分のリュックを背負う体力がなく、チナツにリュックの底を持ち上げてもらいながらフラフラと蛇行しながら集合場所に到着。着替えの他、当座のお米なども持参したので8kgほどの荷物となった。

1ヶ月後、ほぼ無事に帰宅。体は痩せ、薄汚く臭うものの、行きより重くなったリュックを軽々と担いで帰って来た。存分に遊んだ成果は、処分するしかない程に汚れた衣類や、石や木や、要するに本人にしかわからない宝物と、以降ずっと繋がる事になった人との出会いであったよう。

1987年8月 小学3年生 夏キャンプ

前年に続き28泊29日の長期キャンプ(信州下伊那の泰阜村)に単独参加(千夏は山村留学中なので、夏休みは自宅)。前年のスタッフが待っていてくれるし、リュックに負けない体力も付いたので、自信満々の出発となった。

キャンプ地に着いたら、まずトイレを作り、それから自分の寝床の確保なのだそうだ。自分の家を作るという壮大な計画を進めつつ、その側で満天の星を見ながら野宿の毎日。何もない川辺で終日動き回り、雨の時以外は屋根の下にいたことはないという生活だったとか。

ここのキャンプは本当に体を遊ばせてくれる。心底暴れたいと思っている子どもには最高の場所なのだ。だからキャンプの虜になる子も少なくない。春、夏、冬と休暇ごとに参加する子もいるそうで、ウチの子もそのクチ。ものすごい充実感があるらしく、なるべく長く参加したい……ということで長女チナツは1年間を通す合宿(通年合宿)に参加する事になった。サクラも密かに通年合宿への夢を持ち始めたようだ。

1988年4月~1990年3月 小学4・5年生 山村留学

野外教育センターの通念合宿(信州下伊那泰阜村)に参加。決して強い性格ではなく、いつも母親の側を離れたがらなかった彼女が、姉の留学生活を垣間見て留学を希望。2年目のチナツと共に参加。

まだ幼いサクラは、山村留学中、自分をコントロールすることがなかなか出来ず、小さな問題の山積み。身の回りのコトも満足に出来ず、プラプラと過ごしているのに、本人はストレスを感じていたように見えた。 一方、都会の自宅では考えられない生活、野山を駆けめぐり、時間を忘れたような生活の部分は存分に楽しんでいたと思う。

1992年8月 中学2年生

山村留学の時の経験を生かし、野外教育センターの夏キャンプに補助スタッフとして参加。4~5日の短期合宿に3クール連続参加。

多感な年齢に突入しているので多くを語らず、断片的な話に終始する。ただ沢山のスタッフを見てきただけに、3つの合宿でもスタッフの資質で面白さが何倍も違うのだと度々話す。

1993年9月 中学3年生

山形県にある、日本で一番小さい高等学校「キリスト教独立学園」を新聞で知る。 父親と下見に行き、入学希望の気持ちを固めて帰宅。アンケートとエッセイの1次試験に合格。2次試験は、キリスト教独立学園に保護者同伴で1泊2日の試験ということで、私と参加。私にとっても、得難い体験となる。親子共、入学を強く願ったが、敢えなく不合格。

1994年8月 高校1年生

九州野宿の旅。東京駅より夜行バスで下関に向かう。祖母宅で2泊し、出発前の準備をした後、JR宮崎駅前の集合場所に向かう。各地から山村留学の仲間が集まる。まずは自炊のためにお米を買う。レンタカーが足と宿代わり。車からあぶれた者は、その辺りの草むらで野宿。駅の構内で煮炊きしていて、「ウチに泊まれ」と地元のおじさんに同情の招待を受けたりもしたらしい。

1995年7月 高校2年生

1ヶ月のカナダ語学留学。航空運賃を安く上げるため、1学期の終業式を待たずに出発。1人で現地まで行く筈だったが、当日空港で仲間がいることがわかって一安心。家族が空港まで送り迎えをしなかったのは私だけだったと誇らしさ半分、寂しさ半分。 それでいいのだ!

1997年10月~1998年9月

ニュージーランド留学。留学の条件はチナツの時と同じ。親は学費とホームステイ代しか出さないこと、留学の準備は業者を頼まず、学校の選択・入学手続き、飛行機の手配全て自力でやること。

半年間、銀座アスターでアルバイトをしながら、貯金と準備を進める。留学地は迷いに迷ったてニュージーランドのオークランドに決定。

サクラの筆まめさのお陰で、 ニュージーランドでの生活ぶりを垣間見る。友達は圧倒的にアジア人が多くインドネシア人、韓国人、タイ人、中国人、タヒチ人、等々。

最初のホームステイ先は、彼女の意志に反してあまりアットホームでは無い所だったようだ。門限10時、シャワーは5分以内、8時以降はリビングルームに入らないようにといった細々としたルールが、彼女にはちょっと物足りなかった。が、インドネシア人の高校生とドイツ人のカップルのステイ仲間に恵まれて、その部分では大いに楽しんだ様子。

3ヶ月たった頃、ステイ先の都合で、家を変わるコトになった。次はすでに退職した余裕のご夫婦2人の家。食事作りや片づけの手伝いをしたり、チェスを教えてもらったり、毎日沢山の話をして彼女の思う理想の留学生活を送る。

アドバンスクラスに入ってしばらくした頃、ある日突然学校が倒産。学校のオーナーにくい下がり、払い込んだ授業料分の授業を別の学校で受けられるコトになる。英語ができるようになっていて本当に良かったと思った瞬間だったとか。力にはなれないと思ったけれど、この時初めて電話をした。が、電話の苦手な母娘は5分ほどで話が途切れた。手紙とe-mailで、私達の間は充分なのだ。

1998年 秋

ニュージーランドから帰国。留学中決めた保育士の道を歩むべく、1999年春の専門学校入学を目指す。ニュージーランド留学が親からの最後のプレゼントと考え、専門学校入学のための学費、生活費を捻出のため、不本意ながら親の仕事を手伝うことになる。

地理的・時間的な条件から上智大学内にある上智社会福祉専門学校に入学。授業の楽しさもさることながら、仕事をしながら時間をやり繰りし、学校に通い続けるクラスメートがなにより励みにっている様子。

自宅で仕事をした後、夕方5時頃学校に向かう。授業を受け、クラブ活動をやり、10時~11時に帰宅。そんな1年が過ぎた頃、親の仕事の都合で外で働く事になる。

朝7時過ぎにアルバイト先に向かい、夜10時か11時の帰宅。さすがに疲れるのか、帰宅後はお風呂に入って即ベッドへ。

1人暮らしを望むものの、今は金欠・時間欠状態。当分、家離れは難しそう。学費と生活費を自分でまかなっているのは評価できるが、部屋の汚さはどうにかして欲しい。

2001年 夏

来春の卒業に向けて就職活動に突入。何とか公立保育園の保育士になりたいと、一次試験の一般常識と学科の勉強を始める。
月15日ほど千代田区立の保育園でアルバイト。主に2歳児の面倒を見ているが、毎日が発見なのだと、喜々として話す。彼女の語る保育園の子ども達の話に、昔を思い出し、私は何だかうれしくなる。自分で天職じゃないかと思うと言うサクラは、結構良い保育士になるんじゃないかと、想像するのは親のひいき目だよね?

9月は保育科最後の実習で、10日間ほど公立保育園に通う。フランス人の子どもが丁度入園したばかりだったので、言葉を覚える作業やそれまでと違う文化を受け入れる過程をつぶさに観察。

アルバイトや実習で幾つかの公立保育園で経験を積んできた。子どもを知るのと同じくらい、先輩保育士の活躍ぶりや、家庭と仕事を両立させる女性の喜びや苦労を垣間見て、いろいろと思うところがあるらしい。全てが勉強、って感じかな。

新宿区では、外国人やハーフの子どもが3分の1を占めるという保育園もあり、微力ながらニュージーランドで学んだ英語が大いに活かせたらしい。

2001年 秋

実力なのか、強運なのか、公務員試験に合格。来年より晴れて公立保育園の保育士。

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