<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
		xmlns:xhtml="http://www.w3.org/1999/xhtml"
>

<channel>
	<title>ちびチャンネル &#187; 家離れ症候群 〈ママとおばちゃんの子ども時代〉</title>
	<atom:link href="http://cook-le.com/chibi/category/baba/feed" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>http://cook-le.com/chibi</link>
	<description>kanta ＋ hako のサブブログ</description>
	<lastBuildDate>Wed, 27 Jul 2011 07:21:37 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>hourly</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>1</sy:updateFrequency>
	<generator>http://wordpress.org/?v=3.1.1</generator>
<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://cook-le.com/chibi/category/baba/feed" />
		<item>
		<title>ママ（サクラ）の子ども時代</title>
		<link>http://cook-le.com/chibi/237.html</link>
		<comments>http://cook-le.com/chibi/237.html#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 02 Sep 2009 06:48:40 +0000</pubDate>
		<dc:creator>marimo</dc:creator>
				<category><![CDATA[家離れ症候群 〈ママとおばちゃんの子ども時代〉]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://cook-le.com/chibi/?p=237</guid>
		<description><![CDATA[1986年8月　小学２年生　夏休み 野外教育センター（当時）主催の28泊29日の長期キャンプ（信州下伊那の泰阜村）に４年生の姉チナツと共に参加。出発の時は、自分のリュックを背負う体力がなく、チナツにリュックの底を持ち上げ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<div class="sub">1986年8月　小学２年生　夏休み</div>
<p>野外教育センター（当時）主催の28泊29日の長期キャンプ（信州下伊那の泰阜村）に４年生の姉チナツと共に参加。出発の時は、自分のリュックを背負う体力がなく、チナツにリュックの底を持ち上げてもらいながらフラフラと蛇行しながら集合場所に到着。着替えの他、当座のお米なども持参したので８kgほどの荷物となった。</p>
<p>１ヶ月後、ほぼ無事に帰宅。体は痩せ、薄汚く臭うものの、行きより重くなったリュックを軽々と担いで帰って来た。存分に遊んだ成果は、処分するしかない程に汚れた衣類や、石や木や、要するに本人にしかわからない宝物と、以降ずっと繋がる事になった人との出会いであったよう。</p>
<div class="sub">1987年8月　小学３年生 夏キャンプ</div>
<p>前年に続き28泊29日の長期キャンプ（信州下伊那の泰阜村）に単独参加（千夏は山村留学中なので、夏休みは自宅）。前年のスタッフが待っていてくれるし、リュックに負けない体力も付いたので、自信満々の出発となった。</p>
<p>キャンプ地に着いたら、まずトイレを作り、それから自分の寝床の確保なのだそうだ。自分の家を作るという壮大な計画を進めつつ、その側で満天の星を見ながら野宿の毎日。何もない川辺で終日動き回り、雨の時以外は屋根の下にいたことはないという生活だったとか。</p>
<p>ここのキャンプは本当に体を遊ばせてくれる。心底暴れたいと思っている子どもには最高の場所なのだ。だからキャンプの虜になる子も少なくない。春、夏、冬と休暇ごとに参加する子もいるそうで、ウチの子もそのクチ。ものすごい充実感があるらしく、なるべく長く参加したい……ということで長女チナツは１年間を通す合宿（通年合宿）に参加する事になった。サクラも密かに通年合宿への夢を持ち始めたようだ。</p>
<div class="sub">1988年4月～1990年3月　小学４・５年生 山村留学</div>
<p>野外教育センターの通念合宿（信州下伊那泰阜村）に参加。決して強い性格ではなく、いつも母親の側を離れたがらなかった彼女が、姉の留学生活を垣間見て留学を希望。２年目のチナツと共に参加。</p>
<p>まだ幼いサクラは、山村留学中、自分をコントロールすることがなかなか出来ず、小さな問題の山積み。身の回りのコトも満足に出来ず、プラプラと過ごしているのに、本人はストレスを感じていたように見えた。 一方、都会の自宅では考えられない生活、野山を駆けめぐり、時間を忘れたような生活の部分は存分に楽しんでいたと思う。</p>
<div class="sub">1992年8月　中学２年生</div>
<p>山村留学の時の経験を生かし、野外教育センターの夏キャンプに補助スタッフとして参加。４～５日の短期合宿に３クール連続参加。</p>
<p>多感な年齢に突入しているので多くを語らず、断片的な話に終始する。ただ沢山のスタッフを見てきただけに、３つの合宿でもスタッフの資質で面白さが何倍も違うのだと度々話す。</p>
<div class="sub">1993年9月　中学3年生</div>
<p>山形県にある、日本で一番小さい高等学校「キリスト教独立学園」を新聞で知る。 父親と下見に行き、入学希望の気持ちを固めて帰宅。アンケートとエッセイの１次試験に合格。２次試験は、キリスト教独立学園に保護者同伴で１泊２日の試験ということで、私と参加。私にとっても、得難い体験となる。親子共、入学を強く願ったが、敢えなく不合格。</p>
<div class="sub">1994年8月　高校１年生</div>
<p>九州野宿の旅。東京駅より夜行バスで下関に向かう。祖母宅で２泊し、出発前の準備をした後、ＪＲ宮崎駅前の集合場所に向かう。各地から山村留学の仲間が集まる。まずは自炊のためにお米を買う。レンタカーが足と宿代わり。車からあぶれた者は、その辺りの草むらで野宿。駅の構内で煮炊きしていて、「ウチに泊まれ」と地元のおじさんに同情の招待を受けたりもしたらしい。</p>
<div class="sub">1995年7月　高校２年生</div>
<p>１ヶ月のカナダ語学留学。航空運賃を安く上げるため、１学期の終業式を待たずに出発。１人で現地まで行く筈だったが、当日空港で仲間がいることがわかって一安心。家族が空港まで送り迎えをしなかったのは私だけだったと誇らしさ半分、寂しさ半分。 それでいいのだ！</p>
<div class="sub">1997年10月～1998年9月</div>
<p>ニュージーランド留学。留学の条件はチナツの時と同じ。親は学費とホームステイ代しか出さないこと、留学の準備は業者を頼まず、学校の選択・入学手続き、飛行機の手配全て自力でやること。</p>
<p>半年間、銀座アスターでアルバイトをしながら、貯金と準備を進める。留学地は迷いに迷ったてニュージーランドのオークランドに決定。</p>
<p>サクラの筆まめさのお陰で、 ニュージーランドでの生活ぶりを垣間見る。友達は圧倒的にアジア人が多くインドネシア人、韓国人、タイ人、中国人、タヒチ人、等々。</p>
<p>最初のホームステイ先は、彼女の意志に反してあまりアットホームでは無い所だったようだ。門限10時、シャワーは５分以内、８時以降はリビングルームに入らないようにといった細々としたルールが、彼女にはちょっと物足りなかった。が、インドネシア人の高校生とドイツ人のカップルのステイ仲間に恵まれて、その部分では大いに楽しんだ様子。</p>
<p>3ヶ月たった頃、ステイ先の都合で、家を変わるコトになった。次はすでに退職した余裕のご夫婦２人の家。食事作りや片づけの手伝いをしたり、チェスを教えてもらったり、毎日沢山の話をして彼女の思う理想の留学生活を送る。</p>
<p>アドバンスクラスに入ってしばらくした頃、ある日突然学校が倒産。学校のオーナーにくい下がり、払い込んだ授業料分の授業を別の学校で受けられるコトになる。英語ができるようになっていて本当に良かったと思った瞬間だったとか。力にはなれないと思ったけれど、この時初めて電話をした。が、電話の苦手な母娘は５分ほどで話が途切れた。手紙とe-mailで、私達の間は充分なのだ。</p>
<div class="sub">1998年　秋</div>
<p>ニュージーランドから帰国。留学中決めた保育士の道を歩むべく、1999年春の専門学校入学を目指す。ニュージーランド留学が親からの最後のプレゼントと考え、専門学校入学のための学費、生活費を捻出のため、不本意ながら親の仕事を手伝うことになる。</p>
<p>地理的・時間的な条件から上智大学内にある上智社会福祉専門学校に入学。授業の楽しさもさることながら、仕事をしながら時間をやり繰りし、学校に通い続けるクラスメートがなにより励みにっている様子。</p>
<p>自宅で仕事をした後、夕方５時頃学校に向かう。授業を受け、クラブ活動をやり、10時～11時に帰宅。そんな１年が過ぎた頃、親の仕事の都合で外で働く事になる。</p>
<p>朝７時過ぎにアルバイト先に向かい、夜10時か11時の帰宅。さすがに疲れるのか、帰宅後はお風呂に入って即ベッドへ。</p>
<p>1人暮らしを望むものの、今は金欠・時間欠状態。当分、家離れは難しそう。学費と生活費を自分でまかなっているのは評価できるが、部屋の汚さはどうにかして欲しい。</p>
<div class="sub">2001年　夏</div>
<p>来春の卒業に向けて就職活動に突入。何とか公立保育園の保育士になりたいと、一次試験の一般常識と学科の勉強を始める。<br />
月15日ほど千代田区立の保育園でアルバイト。主に２歳児の面倒を見ているが、毎日が発見なのだと、喜々として話す。彼女の語る保育園の子ども達の話に、昔を思い出し、私は何だかうれしくなる。自分で天職じゃないかと思うと言うサクラは、結構良い保育士になるんじゃないかと、想像するのは親のひいき目だよね？</p>
<p>９月は保育科最後の実習で、10日間ほど公立保育園に通う。フランス人の子どもが丁度入園したばかりだったので、言葉を覚える作業やそれまでと違う文化を受け入れる過程をつぶさに観察。</p>
<p>アルバイトや実習で幾つかの公立保育園で経験を積んできた。子どもを知るのと同じくらい、先輩保育士の活躍ぶりや、家庭と仕事を両立させる女性の喜びや苦労を垣間見て、いろいろと思うところがあるらしい。全てが勉強、って感じかな。</p>
<p>新宿区では、外国人やハーフの子どもが３分の１を占めるという保育園もあり、微力ながらニュージーランドで学んだ英語が大いに活かせたらしい。</p>
<div class="sub">2001年　秋</div>
<p>実力なのか、強運なのか、公務員試験に合格。来年より晴れて公立保育園の保育士。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://cook-le.com/chibi/237.html/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://cook-le.com/chibi/237.html" />
	</item>
		<item>
		<title>スペインのおばちゃん（チナツ）の子ども時代</title>
		<link>http://cook-le.com/chibi/239.html</link>
		<comments>http://cook-le.com/chibi/239.html#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 01 Sep 2009 07:29:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>marimo</dc:creator>
				<category><![CDATA[家離れ症候群 〈ママとおばちゃんの子ども時代〉]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://cook-le.com/chibi/?p=239</guid>
		<description><![CDATA[1986年8月　小学４年生 夏休み 野外教育センター（当時）主催の28泊29日の長期キャンプ（信州下伊那の泰阜村）に、２年生の妹サクラと共に参加。 一度だけ届いた汚れたハガキに「すごく楽しい。お風呂に３回入りました」とあ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[
<div class="sub">1986年8月　小学４年生 夏休み</div>
<p>野外教育センター（当時）主催の28泊29日の長期キャンプ（信州下伊那の泰阜村）に、２年生の妹サクラと共に参加。</p>
<p>一度だけ届いた汚れたハガキに「すごく楽しい。お風呂に３回入りました」とあった。１ヶ月後、ゲソっとやせて帰宅。キャンプではどんぶり飯を食べていたらしいが、運動量 がそれを上回わり、脂肪をゴッソリ落としたらしい（残念ながら、食欲は10日ほどで元に戻ってしまった）。</p>
<p>サクラへの気遣いで少し疲れ、その時からサクラが嫌いになったのだと、高校生の頃までグチっていた。</p>
<div class="sub">1987年4月～1989年3月　小学5・6年生</div>
<p>前年夏の１ヶ月キャンプから、泰阜村で暮らそうと気持ちを固めて帰って来たチナツは、翌春から山村留学に参加するための準備を始めた。４月、山村留学生活スタート。</p>
<p>その村での山村留学が開始された直後であったため、すべてが手探りという幸運に恵まれる。 最大のオマケが、10数年宿舎として使われた通称ダイダラボッチを建てたこと。 隙間だらけで、天井もない見事な家？を一軒建ててしまった。</p>
<p>翌年、もう１年いたいと居残りを決める。余裕の２年目。が妹との同時参加でそれなりの苦労があったらしい。村の小学校を卒業、泰阜村を離れる。「もう１年」と強く望んだけれど、親の許可が下りず、無念の帰宅。</p>
<div class="sub">1989年8月　中学１年生</div>
<p>山村留学の仲間と北海道10日間野宿の旅を計画。青年１人、少年５人と少女チナツの７人のメンバー。「札幌駅北口、午後３時集合」というアバウトな旅のスタート地点に向かうため、一人上野駅を出発。大きなリュックのほか、親の「旅行許可書」を持参。オットが書いた「この子は親の許可の元、旅行をしている」旨と連絡先、親切にしてくださった方宛に「旅行の報告をさせるので、ご住所を……」の文章。家出と間違えられて送り返されたら、チナツの旅が台無しになるので慎重に言葉を選んで書いた記憶がある。以降、チナツとサクラの一般的でない「お出かけ」の際は内容流用で活躍した。</p>
<p>他のメンバーもそれぞれの地元から発つ。信州から知人の家々を泊まりながら北上した者、名古屋から船で北海道入りしたものの、１日早く着いてしまって、函館の公園のベンチで一夜を明かした者、部活の合宿から帰ったその足で飛行機に飛び乗った者など。</p>
<p>当日無事全員集合。毎晩寝る前には熊の襲撃に備え（怯え）、内側の場所を取るためのジャンケンをしたとか。少女だからという優遇措置は皆無だったらしい、当然だけど。途中、休養と洗濯のため、ユースホステルに２泊したらしいが、概ね野宿の旅。</p>
<p>余談になるが、学割をもらうために、家族以外との旅行を認めていない（だれが決めたんだ！）学校と揉めるのではないかと思っていたが、結構あっさりカタがついた。親がキッパリ旅行の宣言をしてしまうと、この親には話が通じないということになってしまうらしい、幸いなことに。で、それ以後学校を休んでの旅行や、高校受験の志望校など、トラブルもなく結構思い通りに事が運んだ。</p>
<div class="sub">1991年8月　高校１年生 </div>
<p>ユースホステルの新聞に載っていたアルバイト募集の記事を見て、夏休みを信州・戸隠ユースホステルでアルバイトしながら、戸隠高原で過ごすコトに決める。 約１ヶ月、ユースの雑用をしながら、余暇に散策やテニスを楽しむといったなかなかステキな夏であったような。</p>
<p>電話でアルバイト希望を伝えたものの、ピアレントの方は幼い声に半信半疑ではなかったかと思うが、後で聞くところによると、声で本当に来るかどうかは解るそうな。人相手の仕事をしているプロはやはり凄い。</p>
<div class="sub">1992年8月　高校2年生</div>
<p>前年に続き戸隠ユースホステルで３週間のアルバイトの後、その足で四国に向かう。 山村留学の仲間と四万十川をタイヤ筏で下る計画に参加。実に愉快で危険な川下りだったとは、あとから聞いた話。男の子以上に荷物を背負えるのだとは、彼女の最大の自慢。</p>
<div class="sub">1995年10月～1996年9月　</div>
<p>アイルランド語学留学。親は学費とホームステイ代しか出さないこと、留学の準備は業者を頼まず、学校の選択・入学手続き、飛行機の手配全て自力でやること。その条件をクリアすべく、アルバイトと勉強に励む。</p>
<p>「どうしてアイルランド？」と聞かれると、「だからアイルランドなんだよ」と答えるチナツ。日本人がなるべくいないところを探した結果がアイルランドなのだった。</p>
<p>オドノバン家の温かさに包まれて、今までの人生で最高に楽しい時を過ごしたそうな。週一回の手紙には、早くからアイルランドを去りがたいと綴ってきた。週日は勉強、週末は夜中まで遊ぶというメリハリのある生活。友達は圧倒的にヨーロッパ人で、スペイン人、イタリア人とは、彼女自身が持つラテンっぽい熱い性格が合うようで、特に深い友情を感じあっていた様子。</p>
<p>９ヶ月でアドバンスクラスをクリアしてしまったので、残り３ヶ月間を旅行に当てる。 まずはイギリスでウインブルドンのテニスを楽しみ、フランス、スペイン、イタリア、ギリシャを回る。ほとんど１人旅で、ユースホステルと粗食で見事なケチケチ旅行。 ウインブルドンの立ち見のチケットでさえ、彼女には高価。テニスの試合を見るため、食事に食パンをかじることで相殺した、とか。</p>
<p>スペインでは、朝食にファンタを飲んでいたらしい。暑くて食欲がない上、ファンタなら喉ごしもいいし、炭酸でお腹がふくれ、昼まで空腹を感じないですむ、とか。</p>
<p>美術館をよく歩いたらしい。が、レストランでお金を使いたくないのに、持ち込みの物をたべるスペースが用意されていない美術館がほとんど。仕方なく、朝、ユースで目一杯の食事をして美術館に出掛け、空腹が我慢できなくなった時点で美術館を出て、手作りのハムとパンだけのサンドイッチを食べた、とか。</p>
<p>真夏のスペインでは安く、自室にシャワーのない部屋を頼んだが、５日間滞在だと言うと、フロントの好意でシャワー付きの部屋を提供されたらしい。</p>
<p>ケチケチ精神のお陰で（彼女は普段、割と豪快にお金を使う、念のため）、３ヶ月近くも旅を楽しみ、再びアイルランドに戻り、のんびり遊んで、丁度１年の留学を終えた。</p>
<p>アイルランドに再び行くぞと心に誓って帰国。以後アイルランド関係の本、映画、新聞の記事等々常にアンテナを張り巡らしている。</p>
<div class="sub">1996年10月</div>
<p>アイルランドから帰国。</p>
<p>留学最後の3ヶ月間、ヨーロッパ各地を一人旅したチナツは、スペインに長く留まった。</p>
<p>「今までに見たものの中で一番美しい物は、アルハンブラ宮殿です。」「スペインでは、英語は通じないけれど、幾つかのスペイン語と５までの数字を言えたら、大丈夫。一人旅だから５コ以上物を買う事はないもの」「こちらは只今、40度。誰も通りにいないので、私も公園のペンチでシエスタです」と、旅の様子を知らせるハガキを寄越しながら、チナツは、「次はスペインだな」という思いを膨らませていたらしい。</p>
<div class="sub">1998年8月</div>
<p>信州下伊那の万古渓谷でキャンプ。またも山村留学の仲間（男の子２人と）とキャンプに出掛ける。女の子一人の参加でも、全然心配のいらない関係を彼らは作り上げているように感じるのは母親のひいき目で、どうも男３人という認識に近いらしい。</p>
<p>朝、爆睡しているチナツにご飯が出来たから起きないかと声をかける優しい男の子達、荷物の重さも夜中の長時間の移動も苦にしないチナツの強さ、全くいいバランスだ。 体力のある仲間でやる遊びは格別の面白さがあるのだと、大満足。</p>
<div class="sub">1999年11月</div>
<p>アイルランドから帰国して落ち着くと、スペイン語の学校に通い始めた。英語が出来ると、次のヨーロッパ言語は、単語の意味が類推できるので有利だそうで、週1～2回の授業でも、少しずつ進歩している様子が伺えた。</p>
<p>最初の2年間は親の仕事を手伝い、次の1年はコーヒーショップでアルバイト。と都合3年間で、親へ渡す生活費とスペイン語の授業料を払いながら、留学資金を貯め、1999秋、スペイン・バレンシアに旅立つ。</p>
<p>チケットが安くなる11月の、そのまた安い（短期 FIX の往復チケット。帰りのチケットは初めから使わない予定）チケットをHISで購入。アイルランドの時の、親がかりと違い、すべて自力の今回はお金が続く限り帰国しない予定。</p>
<p>本人の計算によると、地道に暮らせば1年は滞在でき、上手くいけば、留学中に再びアイルランドに渡ったり、前回の留学で親しくなった友人をその国に訪ねることもできるかもしれないとか。言葉が出来ると、バス・フェリー・列車など、安い交通手段がいくらでも考えられる。言葉は行動を広げでくれるなーと、日本語しか分からない母は思うのだった。</p>
<p>バレンシアでは、アイルランド留学中の友人・スペイン人のラファ君のアパートに家賃約1万5千円で同居させてもらう事が決まっていた。もう1人の同居人・アルバロ君と３人で和気藹々の生活ぶりがチナツからの手紙から伺える。</p>
<p>3年間アルバイトに明け暮れ、遊ぶ機会が多くなかったチナツも、今はテニスやローラーブレードに興じたり、唐揚げや五目ずしをフランス人に食べさせたり、間違って買ってしまったサッカーのチケットを、ダフ屋よろしくサッカー場の前でスペイン人に売ろうとして、本職のダフ屋のおじさんの笑いを集めたり、と日々バレンシアの生活を楽しんでいる様子。</p>
<div class="sub">2000年1月</div>
<p>チナツの誕生日でもあるので、記念すべきこの日に、嘗て一度もしたことがない電話をかけてみた。</p>
<p>時差は９時間。あちらの時間で午後２時頃かけると、チナツの寝ぼけ声。前日からラファ君、アルバロ君とその仲間10人で町に繰り出し、朝帰りしたそうで、まだリビングルームのソファーにはスペイン人がゴロゴロ寝ているよ、という状況なのだそうだ。</p>
<p>後日送られて来た当日の写真には、9人のスペイン人の青年の中に、東洋の女の子が1人写っていた。 </p>
<div class="sub">2000年6月</div>
<p>ビジネススペイン語の検定試験を受けるそうで、勉強に時間を取られるのか、週に１回届いていた手紙が届かなくなる。「生きてますか？」という私の手紙を読んで、初めて電話をしてきた。</p>
<p>電話嫌いで、娘達が海外の何処に行こうと、ほとんど電話をしたこともないし、かかってくるのも望んでいない私だが、さすがに安心をもたらしてくれた。</p>
<p>「今日は、テストの勉強を１日だけ休んで、ビーチに行くんだ。レストランで食事もするの。まだ、スペインに来てレストランに数回しか行ったことないんだよ。」と娘。</p>
<p>そうそう、若者は貧乏でなくちゃいけない。貧乏し続けて、１日でも長くスペインにいるか、貧乏の結果少しでもお金が残ったら、ビンボー旅行にでるか、やりたい事もやれる事も沢山あるんだから……。</p>
<div class="sub">2001年3月</div>
<p>１年半の留学期間を終え、泣く泣く帰国。といっても、すでに再度スペインに渡る計画は練り上げてあった。スペインでずっと暮らしていくために、スペインの大学を目指すという。つまり、スペイン社会で仕事をするには、もう少し語学が必要だし、さらに失業率の高い国で仕事に就くには、それなりの能力が必要と判断したらしい。日本で資金稼ぎをして、秋には渡西。お金が無くなったら、帰国して資金稼ぎ……と、何度か繰り返し学校に通う予定とか。とは言っても、あくまでも仕事を得るための勉強だから、途中、仕事が見つかれば即、学校を止めて就職、という心づもりなのだった。</p>
<div class="sub">2001年4月</div>
<p>派遣社員として、日立製作所で働き始める。２ヶ月の派遣期間が終わった後、日立から「１年間の契約社員」の話が持ち上がる。予想以上のお給料にスペイン行きを来夏まで延期する。この１年を頑張れば、スペインで大学生活を何とかやりくりしていけるかもしれない。</p>
<p>我が家で一番パソコンが苦手なチナツが仕事のお陰で、この頃何やらイッチョマエの発言をし始めた。サクラもそうだったが、Macユーザーの我が家族は、仕事やアルバイトでWindowsに触れ、世間並みに解る人、となる。ヨーロッパ関連の仕事なので、英語をよく使うのも、彼女にとってはラッキーなことで、 TOIECなども受けて充実の生活。</p>
<div class="sub">2002年　秋</div>
<p>スペインに再上陸。バレンシアで学生時代を経て、就職。未だスペインの人。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://cook-le.com/chibi/239.html/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
	<xhtml:link rel="alternate" media="handheld" type="text/html" href="http://cook-le.com/chibi/239.html" />
	</item>
	</channel>
</rss>

